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いわ木の物語

これまでの歩み

先代

自分が物心付いた時は、帰宅する父親(先代であり初代)からはいつも木の香りがしていた…。
私の父は、三本木町(現在・十和田市)の下山師匠の元に弟子入りし大工になった。次男坊の父は、岩木家の末娘の母の婿となり、大家(本家)のすぐ近くに家を構えた。それが十和田町両泉寺の岩木大工の始まりであった。
自分が幼き頃、家には大工の弟子が4人いて一緒に寝泊りする生活をしていた。家を建てる時は、した小屋(飯場)を建てて家が完成するまで、弟子はそこで寝泊りをしていた時もある。
小学生の頃、父親は余計なことを言われない、聴かれない・されない恐い存在だったが、夕方迄遊びほうけている自分をいつもオートバイで迎えに来てくれた。三本木まつりに連れてってもらった記憶もある。
中学生の時は、日曜日は柱にとのこ(砥石を切り出すときに出る粉末。また、黄土を焼いて作った粉。木材の着色、塗料の下地に用いる)を塗り、材料・荷物の積み卸しをして家業の手伝いをしていた記憶がある。
自分で鳩小屋も造ったりもしていた。

大工修業

高校進学選択の余地は無く、大工の道へ進む。家にいると甘えるので、父に言われるまま中野渡工務店に就職し修行に出る。
9人の大工弟子のひとりとして生活をはじめたが、最初は座って食事をすることができず、常に立った状況で朝食と夕食を済ませた。昼は9人分の兄弟子の弁当を持って現場に向かう毎日を過ごしていた。
数年経過し5年間の弟子入りが終える頃、師匠上がりをする前に、いつもお世話になっている店屋の女将さんから、床の修繕の大工仕事を頼まれた事があるが、その時父親から「はっから、銭儲けをするなよ。金儲けすることを覚えるなよ。」と言われ、今でも教訓として残っている。
5年間の弟子修業を終えて師匠上がりと同時に北海道の定山渓に出稼ぎに行っていた。
半年して父親から家に戻るよう連絡があり、急遽帰省をする。

帰省

21歳から父親と一緒に働き、休日もなく朝7時から夕方は6時迄働き、小遣い程度のお金をもらっていた。今考えれば自分でも良くやっていたと思う。
冬場の仕事が無い時は、自分は関東に出稼ぎに行き、貰った給料で事務所のスチールの机一つと冷蔵庫を一台買った。どこか、将来の夢を見て人生設計をしていたのだろう。
もともと、根っからの大工で営業力は乏しく、受注もそれほどある訳でもなかったので、下請け業者としての仕事が主となり、仕事が切れないのは有難いが、金銭的な面で会社を維持することが困難となってきた。
下請けを続けていくなかで、「このままでは自分達の特徴が無くなってしまう」と危機感を持ち始め、「いつか、いわ木の家で家造りをしたい。」と強く想う様になった。
平成11年、社長である父親が病床の末他界する。頼りにする存在がなくなる。

転機

平成13年。直接にお客様から注文を頂く機会が訪れた。その時に木を活かした、住む人にやさしい家を造らせてください、とお願いすると承諾を頂いた。これが「いわ木の家」の始まりとなった。
その後、少しずつお客様が増えてきた。あるお客様に『なぜ、弊社を選んだのですか?』とお聞きすると『あなた方が一生懸命だからです。』と言って頂き、とても嬉しかった。
平成21年3月、県庁より青森産地域住宅モデル普及推進事業実施要領が公開された。青森県の地域特性を活かした長寿命の住宅供給を促進するため、モデルとなる展示住宅の設備等を行う事業を支援し、地域の住宅市場の活性化を図ることを目的とする事業だった。
いつかはモデルハウスが欲しいと常々想っていたので、早速応募しモデルハウスを建てる決意をした。
平成21年9月から本工事が始まり長期優良型で平成22年1月にやっとモデルハウスは完成しました。

地元で

現場一生懸命派の自分は根っからの大工職人で、口下手で営業力が乏しく仕事を受注できずに困っていた。弊社は大工職人だけで構成されている。
平成19年5月、県産材の家づくりに想い入れを持つ新聞記者М氏が十和田職業能力開発校に行き、自分の所へ取材に訪ねてきた。その後自分のコンセプトやお客様の家が本にも掲載され、本は平成19年から今も毎年造本しており毎年取り上げてもらっている。
平成21年から青森県庁で青森産木造住宅コンテストがあり、弊社でも応募をする。3年目に特別賞を頂き、優秀賞・最優秀賞も受賞させて頂いた。
これは、木という自然の恵みがあり、木で家を建てるお客様があること、そして弊社を引っ張り上げてくれた方々のおかげで地域社会に知って頂き有り難く感謝の気持ちでいっぱいです。これからもこの地域で社会貢献しつつ存続していきたい。